「私がおばあちゃんのところに来たのは、地上で最後のやすらぎの場だと思ったからよ」

「だれにもこの地上にそんな安らぎの場なんてない。だれでも自分自身が最後の安らぎなんだ」

(リュドミラ・ペトルシェフスカヤ,沼野恭子訳「私のいた場所」)

みなさんの安らぎの場所はどこですか?図書館のお気に入りの席や居心地のいい喫茶店、のんびりした田舎や自然の中、あるいは都会の雑踏の中…人によって安らげる場所は様々ですね。もしくは安心できる人と一緒にいるとき、大好きなペットと過ごすとき等、人や動物が安らぎの場になってくれる場合もあると思います。もちろん、ひとりきりで過ごす時間が安らぎの場である人もいると思います。

私は気持ちが安定しているときは、安らげる場所にいけたり、安らげる行動をとることができます。けれど、一旦落ち込んでしまうと、そこから抜け出すことは非常に困難で、何をしていても、苦しくなってしまいます。私は、気持ちの切り替えがとても不得手で、この性分は10代のころから変わらない気がします。昔は、安らぎの場所なんて、皆無だと思っていました。私は10代の終わりから20代のはじめまで、ずっと引きこもっていました。蟄居して、ひとりきりで足掻いていた時代は、とても苦しかったです。

引きこもっていた時は、本が唯一の友達でした。だから、リルケ(19世紀オーストリアの詩人)が「孤独はいいことです。というのは、孤独は困難だからです。あることが困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません」と書いていれば、それを真に受けて、寂しさが限界を突破しそうなときも、「今は孤独が成長するときやから我慢しなあかんのや」と思って、じっと耐えようとしていました。本の言葉にすがっていました。振り返ってみると、ただのバカ真面目だったように思います。でも、どうしたらいいか、本当にわからなくて、途方に暮れていました。今も、それは変わっていません。どうにかなってしまいそうで、でも、どうにもできなくて、苦しさに呻いています。けれど、引きこもりの経験から学べたことがあります。それは、人はひとりでは生きていけない、生きるということは、人の中で生きることなんだ、ということです。こんなことは当たり前のことかもしれません。でも私が身に染みて理解できるまでには、とても時間がかかりました。

今、私は自分の苦しさを人に話せるようになりました。昔は、誰にも言えませんでした。けれど今は、助けてほしいです、私は苦しいです、と伝えることができます。苦しみを共有してくれる人がいることは、とても有難いことだと思います。でも、自分の苦しみは、自分にしかわかりません。周りの人は、サポートをしてくれますが、乗り越えなければならないのは自分です。それは、生きている人みんながそうです。自分の人生は自分で背負っていかなくてはならないからです。結局、安らげる場所も自分で見出していくものなのだと思います。

今は、何をしていても、どこへ行っても、誰と一緒にいても、私は不安定です。原因がわかりません。季節の変わり目の所為なのかもしれません。もう、頑張りたい、とも思えなくなってきています。気力が潰えてきています。けれど、そんなぼろぼろの状態にあっても、安らぎを感じられる瞬間があります。例えば、ネコを撫でてやわらかさを感じた瞬間、梅の花の間にメジロを見つけた瞬間、コーヒーの良い香りをかいだ瞬間など、一瞬で終わってしまうものかもしれませんが、それでも私は安らぎを感じられていることに気が付きました。今は苦しみの中に沈んでいることしかできませんが、そういった瞬間もあるんだということを、忘れないようにしたいです。

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